昭和40年02月19日  夜の御理解



  「話を聞くばかりが能ではない。わが心からも練り出せ」と。わが心からも練りだせということはどういうことを練りださなければならんのだろうか。、あんまり練り上げよったら妙なものが出来上がってくる。とにかく練って練って練り上げると云う、どう云う事を練って練って練り上げるんだろうか、私は思うんです。どう云う中にあっても、どう云うような場合でも、どう云うような事柄の中からでも、神様といつも交流しておられるようなぐあいに練っていかなきゃいけんと思う。
  痛いことがあっても痒いことがあっても、暑い思いもし寒い思いもするような事があっても、そん中からです、なんとはなしに、神様にいつも交流しておる。はぁ暑か暑かって言うだけではなく、あ~寒い寒いと言うだけではなく、暑いけれども寒いけれどもそこに神様と交流するなにものかを練り出していかにゃいけんと思う。例えば御教えを頂いても、一辺通りに頂いただけじゃいかん。
 裏から表から縦横からひとつ検討しなきゃいけないですね。例えば、「人を軽う見な軽う見たらおかげはなし」と、こう断言しておられる御教えがありますね。ですから、本当にこの人を軽う見ちゃならん。軽う見ちゃならんと云うだけではなくてですたい、それと反対の事を一つ思うて見るのですよ。ですから、軽う見るどころではなくて重う見ると云う事、相手を重う見ると云う事。
 だから大事に取扱うと云う事、人を大事にさせて頂くと云う事、なったらどう云う事になりますかね、人を軽う見たらおかげはなしであるならば、人を重う見たらおかげはあると、こう断言して下さる事になってくるのではないでしょうか。只軽う見らんだけじゃなくてです、本当に重う見る。そこに人を大事にすると云う事になってくる。いよいよ大事にしなければおられない事になってくる訳なんです。そうでしょうがね。
  例えば、それは子供達でもそうです。子供だからと云うて粗末な取り扱いをしちゃいかんです。「こら!」ちゅうようたような事ではいかんようですね。やっぱり神様の氏子としての取り扱い、この辺が、私信心させて頂く者は出来なきゃいけないと思いますね。今日ある方がお参りをして見えてから、「先生、お恥ずかしい事でございます」「何がそげん恥ずかしいかの」と言うたら、「先生あの又出来ました」と、結婚しましてから、しばらく子供を頂けなかったんです。
 そしたら、もうしきりにその事をお願いしてお蔭を頂いて、去年出来たのです。ね、ところが先日、病院におかしいと思ってやらせて頂きましたら、もう妊娠3ケ月と言われました。お恥ずかしいけど又出来ましたとこう。本当に、先生相済みません、もう要る時だけはやあやあ言うてお願いしてから。ね、続けて出来りゃ、もうなにか要らんもんのような気がすると言う。誰でもそうですよね。子供でも同じ事。
 おひゅぎんでももらう時、自分が欲しい時にはです、お頂戴して有難うともらうけれども、腹一杯の時は、どう云う物もやってもいらんって言うてから投げやるようなもんじゃないでしょうか。ところがそう云うような場合でも、云わば信心にならなければならない。実意丁寧にならなければ、いらんと言うたんでは、もうおかげを突き返す事になり、もうその後のおかげはいらんと云う事、頂けないことになります。
 それを断ち切るような事ですから、だから何とかどうとかしてです、ここんところをつなぎをもっとかなければいけない事になるでしょうが。だから私は、神様に本当に必要な時にはです、欲しいと思う時にはです、やあやあ言うてからお願いしてから、おかげを頂いて子供が出来た。それぞれが今年、又年内に出来る事になった。ね、続けて頂いたら有難くない、相済まん事だと、もう本当に神様にひれ伏してお詫びをしなさいと、私申しました。要る時はやあやあ言うてもろうて。
 そして続けて出来たらもう要らんような心が、私の心の中に起こっとりますと、相済みません頂きます。修行と思って頂きます。こう云う気持ちになりなさいと、私は、ね、そこには、修行と思うて頂く事も、有難いがです、相済みませんと云うお詫びで神様と通う事が出来るでしょう。去年子供を頂いた時にはもう有難かったと頂いた。神様と交流した。今年頂くのは、あんまり頂くのは有難くはない。
 それでも、日頃信心の御教えを頂いておるとです。わがいる時は、やあやあ言うてから、そして続けて頂きゃもう要らんと云うような事では、もうそう云った神様と絶縁状態のような事になる。これでは相済まんと云う思いかたがです、日頃頂いておる御教えが、そこが練らなきゃいけない。こんな場合、どう云うふうに頂いたがおかげであろうか、どう云うふうに頂いたら神様と交流するだろうかと、そこで相済みませんと云う事になり、修行と思うて頂きます。
  そりゃ修行でしょうね。まだ云わば、誕生がようやくきたと云うところで、又次の子を頂くのですから。母親としては、こんなに修行な事はなかろうと思いますけれども、ね、そこを修行として頂きますと云う時にです、その修行には必ずおかげがつきものなんですから。ね、お詫びには、お礼と同じ意味合いにおいて、神様と交流するのですから有難いでしょうが。いつでもどんな場合でもです、神様と交流する方法を、心の中に絶えず考えておかなければならない。又その事を練らなければいけない。
  皆さんもご承知のように、私共は二食ですから、どうしてもお昼に普通の麦御飯ではありますけれども、硬い御飯ですから、まあ頂き過ぎると云う事はありませんですけれども、それでもやっぱり、それからの時間が短いですから、夕食の時にはどうもお腹が一杯。まだこの私共のようにじっとしておりますから、お腹がなかなかへりません。晩は麦の茶粥です。粥食ですから、今迄、私あの冷や御飯をこうついでから、茶粥をかけてからこう頂くんですね。
  けれども、どうもお腹が大きいから、今日は私と久保山先生二人はお茶粥さんのうわずみのところを頂く。茶粥のうわずみのところをこう頂かしてもらう。お腹が大きいですから、そりゃおいしいと云う事はないですけれども、けど私そう云う時に、その思うんですね。本当に神様、もうこれがお腹がもし空いておる時であったら、例えば昔のように一食修行でもさせて頂いておる時であったら。
 それこそ同じお粥一杯でも濃いところから、こう頂きたいのが人情であるけれども、最近お蔭を頂きすぎましてから、もう本当にうわずみのところでよかぞと云うぐらいにおかげを頂いておりますということ。その事をお礼申させて頂いておると、そのお食事が有難く一食終わらせて頂くことが出来るのです。又、御飯食べんならんと云ったようなものではなくてですね、どこからか、どこのはしからか神様と交流する私は事をいつも考えておかなければならない。
  信心させて頂く者は、どのような場合でも、どのような事柄の中からでも、ね、神様といつも通うておれれる工夫、そう云うことが、私「話しを聞くばかりが能ではない。わが心からも練り出せ」とおっしゃる。そう云う事を練り出していかなければならんのじゃないかと、こう思いますね。おかげ頂きました。